新・医事紛争Q&A (北海道医報 平成19年3月号掲載)

第6回 「癌の疑いの告知」  
               北海道医師会 顧問弁護士 黒 木 俊 郎

当院では,黄疸を訴えて受診したA氏(48歳)を入院させて検査をしたところ,膵臓癌の疑いあることが判明しました。その時点では,まだ,細胞診の結果が出ていませんでしたが,もし悪性の場合には進行が早いので早期治療の必要があると判断し,治療方法について癌の専門病院と相談したところ,早く転医させた方が良いと言われたので,転医させました。A氏には「細胞診の結果が出ていないので確定診断ではないが,膵臓癌の疑いがある」と説明したうえで転医の承諾を得ています。
ところが,専門病院で精査したところ,悪性ではないことが判明して退院したそうです。しかし,A氏は喜ぶどころか激怒し,当院に損害賠償を請求してきました。A氏の言い分は,「癌だと言われて多大のショックを受け,会社も退職した。失業者になったので生活が出来ない。すべて病院の誤診のせいだから,慰謝料と今後の生活費の補償をしてくれ」というのです。どうすればよいでしょうか。


A氏の要求は,法律上の根拠のないものですから,断固拒否すべきです。
先ず,「膵臓癌疑い」という疑診は,診療当時の検査所見に基づく合理的な診断であり,「誤診」とは言えません。
また,患者の自己決定権尊重の観点から,診療情報はできるだけ速やかに患者に開示されるべきであり,それが「癌の告知」や「癌の疑いの告知」であっても,積極的に情報提供がなされることが望ましいというのが,法律家の通説です。ただし,例外として,癌の告知を受けた者が悲観して自殺を図るなど,患者の予後に重大な悪影響が出ることが予想できる場合には,告知の仕方に配慮が必要とされています。
しかし,本件は,「癌の告知」ではなく「癌の疑いの告知」です。また,悪性と判明した場合には専門病院で治療を受けるという前提での転医ですから,「癌の疑いの告知」により患者の予後に悪影響が出ることを予想することは困難です。
よって,貴院の診断および転医処置に過誤はないと判断します。


【質疑応答】
医師会のA理事:昔は,患者に癌の告知すらしない医師が大半でした。

弁護士:そのため,癌の告知をしなかった医師が訴えられ,説明義務違反で敗訴した例もあります。

A理事:インフォームド・コンセントとか自己決定権とかが主張され始めてから,積極的に癌を告知する医師が増え,「癌の疑いの告知」までする時代になりました。今回のA氏の請求は,時代の流れに逆行するものですね。

弁護士:そうです。癌の疑いがあるのに,細胞診の結果が出るまで患者に説明もできない,転医もさせられないということになると,医師,患者双方にとって,誠に不幸なことです。

A理事:先生が過去に担当された事件では,似たケースはなかったですか。

弁護士:ある病院で交通事故の入院患者に胃がんの疑いがあり,精査のため大病院に転医させました。ところが大病院では胃がんの疑いは否定されたばかりか,交通事故による骨折が発見されました。怒った患者は,外科病院に対し,骨折見逃しによる通常の損害賠償のほかに「ありもしない胃がんの疑いを告げられショックを受けたことによる慰謝料」を要求して提訴しました。

A理事:裁判所は,どのような判決をしたのですか。

弁護士:被告側弁護士の私が「癌の疑いの告知」の正当性を主張したところ,裁判官も賛同され,患者側弁護士を説得して慰謝料請求を取り下げさせました。その結果,骨折見逃しの損害については和解で解決しました。

A理事:なるほど。すると,裁判所は,「癌の疑いの告知」については,肯定的評価をしていると考えていいですね。

弁護士:その通りです。しかし,今後は,A氏のようなクレームを避けるため,病院として何らかの対策を取る方がよいと思います。

A理事:具体的にどのような対策が考えられますか。

弁護士:今でも癌という言葉には,不治の病という響きがあります。だからこそ,患者は癌と聞かされただけで将来を悲観し,辞職・退職・離婚・家出・自殺など破壊的行動に出る恐れがあるのです。従って,医師の方でも,「癌の疑い」ではなく「腫瘍」という言葉で説明するとか,告知の場には親族を立ち合わせ,できるだけ楽観的な雰囲気で説明するとか,細胞診で良性の可能性もあること,悪性と判明しても元気に生きている症例もあることなど,患者が何らかの希望を持てるような話を加える配慮が望ましいと思います。

A理事:余り楽観的な話をすると,患者が「転医はしない。精密検査も受けたくない。手術も抗がん剤も嫌だ」などと言い出す恐れがあります。

弁護士:その点がムンテラの難しいところですね。「人を見て法を説け」という諺の通り,患者の性格や心理を見極めて説明することが大切と思います。